日本神話(古事記)

[40]新羅との交流と応神天皇の最後

吉野の国梄(奈良県吉野の豪族)たちが、お約束の歌を歌い朝廷に食料を献上したよ。

この応神天皇の時代に海部・山部・山守部・伊勢部などの制度が定められ、
灌漑用水のための剣の池(つるぎのいけ)が作られたんだ。

また、新羅の人がやって来て、建内宿禰タケウチノスクネがリーダーとなり百済池も作ったよ。

百済の王、照古王ショウコオウが雄と雌の馬を一頭づつと、刀と鏡も献上してくれたんだけど、応神天皇はさらに百済の国に賢い人がいたらその人も献上するよう言ったんだ。

すると和邇吉師ワニキシという人が、孔子の言葉を残したと言われる「論語」10巻と、漢字の練習テキストのような「千字文(せんじもん)」を1冊持って来日したよ。

鍛治師や、呉服(くれはとり)とよばれる織物の技術師、酒の醸造のスペシャリストなど、いろいろな技術者が大陸からやってきたんだ。

酒の醸造家ススコリが、酒を醸して応神に献上したので、応神はついつい飲みすぎてしまい酔っ払ってしまて外に出て、道の真ん中の石を杖で避けようとしたら石が逃げたよ。
そこから「硬い石も酔っ払いは避ける」ということわざがはやったんだ。

その後応神天皇は110歳で亡くなったよ。