天下を治めるため、高千穂(宮崎)から東(奈良)へむかう
アエズの子、神倭伊波礼毘古命は、兄の五瀬命と高千穂の宮で相談し、東の地で政治を行おうと船で日向を出て、まずは筑紫(福岡)に移ったんだ。
ここからの大和までの大移動を神武東征と言うよ。
豊国(大分)の宇佐に着いたとき、そこに住む宇沙都比古と宇沙都比売という兄妹が足一騰宮(あしひとつあがりのみや)で食事を捧げたんだ。
そこから筑紫(福岡)の岡田宮(おかだのみや)で1年を過ごし、さらに阿岐国(今の広島県)の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国(今の岡山県)の高島宮で8年過ごしたよ。
速吸門(ハヤスイノト)で、海の道を知っているという国つ神に仕えさせることにし
槁根津日子という名前を授けたんだ。
更に上って 浪速国の白肩津(現 東大阪市附近)に停泊すると、スネの長い男、登美能那賀須泥毘古の軍勢が兵を率いて戦いを挑んで来たよ。
神倭伊波礼毘古命はこれを迎え撃つべく積んできた楯を取って船から下りてこの地に楯津という名を付けたんだ。後に日下(くさか)の蓼津(たでつ)と呼ばれるようになったよ。
兄、五瀬命の無念の死
登美能那賀須泥毘古と戦っているときに、兄の五瀬命は矢を手に受けて深い傷を負ったんだ。
兄は「私たちは太陽神の子なのに日に向かって戦ったのがいけなかった。ぐるっと回って日を背にして敵と戦おう」と言ったよ。
兄の言った通り紀伊半島沿いに船で下り、熊野で上陸して、南から大和に攻めのぼることにしたんだけど、大阪府泉南市まで来たとき、傷が悪化して五瀬命が
「なんてつまらぬヤツの手にかかって私は死ぬのか!」
と大声で嘆いて亡くなってしまったんだ。
この雄叫びゆえに男之水門(おのみなと)と呼ばれることになったよ。日向を出てから16年行動をともにした大切な兄を失ってしまったんだ。
アマテラスからの援助
神倭伊波礼毘古命が悲しみを乗り越え、熊野村まで来たとき、大きな熊がでてきてみんな気を失ってしまったんだ。
すると高倉下という地元の男が一振りの大太刀をもってきて、気を失っていた神倭伊波礼毘古命に献上したよ。これで神倭伊波礼毘古命は正気を取り戻したんだ。
この太刀は天照大神とタカギ(高御産巣日神のこと)の二人が神倭伊波礼毘古命の窮地を救うために建御雷之男神に命じて高倉下に持たせ、天つ神に献上するよう指示したものだったんだ。
八咫烏のご案内
さらにタカギは、熊野の先には反抗する神がたくさんいるからと、案内役に八咫烏を送ってきたよ。
八咫烏についていくと、吉野川の下流で魚をとる神がいた。更に進むと井戸から尾が生えた神が現れたんだ。
山に入るとまたもや尾を生やした神がいてたんだけど、全員神倭伊波礼毘古命に忠誠を誓うために参上した土地の神だったよ。
これらの神はその後、大和政権を支える豪族の祖先神となるんだ。
ちなみに、道案内してくれた八咫烏は足が三本あるとされているんだ。
ちなみにこの八咫烏はサッカー日本代表のシンボルマークにもなっているんだよ。
神武に反抗する勢力
宇陀(奈良県北東部)に兄宇迦斯と弟宇迦斯という兄弟がいたよ。
その兄弟に八咫烏が神倭伊波礼毘古命に仕えるかどうか聞くと兄は矢を放って追い払ったんだけど、悪知恵を働かせて一旦従う姿勢を見せて欺き罠をしかけた御殿を作って神倭伊波礼毘古命の暗殺をたくらんだんだ。
ところが、弟は神倭伊波礼毘古命に兄の裏切りを知らせたよ。
軍務担当の道臣命と大久米命は兄宇迦斯を呼び出し、自分の作った罠に追い込み、死んだ兄を八つ裂きにして野に捨てたんだ。
一行は奈良盆地に入り忍坂(おさか)=桜井市の大きな洞窟に到着すると土雲と呼ばれる土着民が敵意丸出しでたくさん待っていたよ。
神倭伊波礼毘古命は彼らを油断させるため、全員分の食事を用意したんだ。
大勢の土雲と同じ数の料理人を用意し、各料理人に刀をしのばせ歌の合図で一斉に斬りかかったよ。
降臨神ニギハヤヒノミコト
大和平定目前で、邇芸速日命が神倭伊波礼毘古命のもとにやってきたよ。
邇芸速日命は、高天原の天つ神の御子が地上に降り立ったときき追って天から降りてきたのだと話したよ。
天つ神の印である宝物を献上し、仕えるといったんだ。
邇芸速日命は登美能那賀須泥毘古の妹の登美夜毘売を妻として宇麻志麻遅命を生んだよ。
このように神倭伊波礼毘古命は荒々しい神たちを説得して服従させ、反抗する者どもを打ち負かして奈良の畝火(うねび)の橿原宮(かしはらのみや)に住んで初代天皇である神武天皇となり天下を治めたんだ。
ちなみこの日は現在の2月11日で、建国記念の日となっているよ。